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2010/10/04

映画「(500)日のサマー」を観ました

2009年公開、「500(日)のサマー」をDVDで観ました。

かなり前に公開された映画ですので、評価は定着していますが、これはすごい映画ですので未見の方は見た方が良いです。
脚本・監督がすごいのが、「恋愛映画」ではないのです。「恋愛を観察する映画」もしくは「恋に落ちた人を観察する映画」です。「恋愛映画」は同時、もしくは時系が違っても相手が「運命の人」であると認識する瞬間とその描写があり、そこまでの経緯と顛末が映画の経糸となるわけです。
この映画は男性の心理と場面が描かれるのですが、女性は男性から観察される場面のみが描写されるため、男性が「恋に落ちた」のはわかるのですが、女性が「恋に落ちた」かどうかの判断がつかないというわけで、これは実生活と同じ状況である、というわけです。
小説の3人称では「神の目」により主人公の内面を描写することにより感情移入が可能になりますが、映画では説明になってしまうために避けられます。今作は感情移入した上でも、あらかじめ提示された終わりの時点から過去を振り返る3人称になっているわけですね。

建築家を目指していたトムは、生活のためにグリーディングカードをつくる会社でライタとして働いている。ある日、会社の社長の新しい秘書として入社したサマーに一目惚れする。初めての会話、彼氏の有無の確認、初めてのキス、初めてのSEX、気持のすれ違い、修復の期待、別れの言葉、と一つの恋、「(500日間の)サマーとの日々」がその時系を行き来しつつ描かれる。

よく「世の中には2種類の人間がいる~」という言説が行われますが、作中に提示される「世に中には2種類の人間しかいない。男と女だ。」というのが本来唯一の答えでしょう。種類が違うわけですから、例えば人間にはネコの気持がわからないように、また、人間がサルの行動の意味が理解できないように、相容れないものです。もっといえば、人はそれぞれ別の個体ですから定量化できるもの以外、感情などというものは、その状況から大きさまで、他人に伝達、互いに共有することは不可能なんですね。
ところが誰かに恋するというのは、「恋に落ちる」という通り、落とし穴に落ちるのと同じ、乱暴でいきなりなんですね。稲垣足穂翁の「詩は歴史にたいして垂直に立つ」というのを引いて、中島らも氏は「恋愛は歴史にたいして垂直に立つ」と言いました。つまり、その瞬間、「あぁ、」と感じた瞬間は、横軸の時間の流れとは別次元に存在し、状態の継続ではないのです。

トムはサマーを「運命の人」と感じますが、サマーはトムを「運命の人」と感じない、いや、ワタクシの希望的な類推になりますが、「運命の人」ではないかと感じることはあったけれどもその熱量が違うのではないかと思うために二人のズレが生じるのですね。
「運命の人」と感じるトムはその意思が確認できたと考える初SEXの翌日の世界は、これまでとは同じ世界ではなく、まさしくこの映画のように、すべての他人が自分に善意を持っているように感じ、歩く足取りは踊るように、噴水も自分が通るのに合わせて吹きあがるように感じる、このシーンはスバラシいのですが、気持がするわけです。「運命の人」と恋人の関係にある生活は、すべて肯定的で、人への感謝にあふれます。
ところが、二人は感情を共有できているわけではないですから、トムの言動とそれに対するサマーの反応を見てるとトムの無神経さが気にかかるわけです。全体的にはトムが直接「君が好きだ。」とサマーに伝えることがないのですが、逆に脚本家は「女性は直接言われなければ満足しない」と考えているかもしれず、それも男女の差による勘違いですよね。別れを切り出すサマーが最後に拘った「卒業」を一緒に観ることは、二人の関係は「卒業」のラストのような関係にしか思えないということか、その涙は共感のものか、それとも同じものを観ても同じように感じない亀裂の大きさに対するものでしょうか。
別れたトムの世界は黒のコンテで描かれたように味気なく、すべての他人が自分に悪意を持っているように感じ、否定的な言葉しか出ません。
ただ、残念ながら恋は落ちるもので、しかも、乱暴でいきなりです。もしかしたら何日間かのオータムの日々があるのかもしれないし、めぐりめぐって、また別のサマーと出会うのかもしれないです。

とすれば、かけられる言葉はただ一つ、「ご愁傷様」としか言えないですよね。
 
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