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「ワシがゆうたんやない!
    電波や…、電波がワシにいわしよんのや!」

2010/07/03

伊坂幸太郎の「砂漠」を読みました

今現在“砂漠”にいる人に向けて、“オアシス”の話をするときに、「あの時は良かった~」というのではなくて、「あの時のことは、そうは変わらず今でも大切だろ」という背筋が伸びる物語でした。

大学へ入学した男3人と女2人が、大学生活の中で、麻雀・ボウリング・アルバイトを行いながら、連続通り魔犯、連続空き巣犯という事件や出来事に合いながら成長していく様を、一人称で、春夏秋冬春の章立てで、過去を語る形で物語っていきます。

サン・テグジュペリの著書からの引用を下敷きに、例えば「~かー」であるとか、章中一回出てくる「なんてことは、まるでない」、章終りの「~だいたいこんな感じだ」というくくり方のオフなカンジで進んでいく成長物語ではあるのです。

ただ、作品中、「三島由紀夫の自決」に関する主人公2人の会話で、人が他者に向かってその覚悟を持って物事を伝えようとし、かつ、本気で人に伝えようとしても伝わらない寂しさについて語る箇所があります。それに対して、主人公の一人は、そうまでしても人に伝わらないなら、別なものに伝えないといけないと考え、全く極小な事柄を成し遂げようとし続けているわけです。

つまり、社会にでている人にとって、モラトリアムに大切だと考えていたことを完遂することは困難ではあるけれども、本当に大切ならば、他の方法で表現し続けることもできるのではないか、という投げかけを感じるのです。

「バタフライ・エフェクト」や、「風が吹けば、桶屋が儲かる」と洋の東西を問わず言葉がありますが、直接的な因果がなくとも、ある行動が何らかの影響を生むことがあります。

「大切なこと」を成し遂げるための全く関係のない行動というのは、つまり「祈り」の本質なのではないかと気付かされました。

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