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2010/01/29

映画「抱擁のかけら」を観ました

2月6日公開の「抱擁のかけら」を試写会で観ました。

盲目の脚本家のハリー・ケインは、新聞記事で実業家のエルネストが亡くなった事を知る。その後、エルネストの息子がハリーを訪ね、自分の監督作の脚本をハリーに依頼。それをきっかけに、ハリーは封印していた過去に向き合う。今から14年前、失明する前のハリーは、新進監督マテオとして活躍していた。ある日、マテオはオーディションにやってきた美しい女性レナに心奪われる。しかしレナは、実業家エルネストの愛人だった。

アルモドバル監督らしい映画だなぁ、と思います。

一つは、可笑しみがあるということ。
例えば、冒頭、主人公が盲目だと判ったばかりだというのに、出会ったばかりの〈90‐68‐90〉のパツキンのおねーちゃんとヤッちゃってるとか。
嫉妬したエルネストが、偵察のために息子に撮らせた映像を見るときに、音声がないためレナとマテオの会話を読唇術を使える女性に語らせるわけですが、本人目の前にして、「あんな奴が上にのっているのが耐えられない」などど言っちゃうわけです。
それから、映像的なダジャレです。ベットがマッチの火で燃えているとか。

二つめは、やっぱり、強権的な父親(父性)に対する反抗ですね。
なぜか、アルモドバル監督作品は女性に人気があるようなのですが、実際は男目線の強い監督だと思います。「女性賛歌三部作」などと呼ばれる作品群でもその在・不在に関係なく、上から押し付けてくるような男らしさに対しての反感が感じられます。

お話自体は、「死と再生の物語」ということなんでしょうか。
まぁ、どんな話でも「死と再生」と「愛」の物語ではあるのですが、主人公の心が14年前の事件により死んでしまったところから、疑似家族による癒しを経て、きっかけを得たことにより再生に向かうのに、14年前の事件の裏にはその疑似家族が関わっていたという心が痛い展開。ただし、出来事に対して許しを求め、与える。次のステップを踏むために出来事を忘れるのではなく、記憶にする、一つの映画を公開するあてがなくても完成させるように。

この映画の特徴としては、過去の映画へのオマージュが見られるところですね。映画の衣装合わせの時の、モンロー風だとか、テレビで流れている映画だとかの判りやすものから、映像やセリフの引用など、劇中劇の形態をとるからか、映画をとることをストーリィに入れたからか、意識して使っていることが判ります。もしくは、芸術を理解しない出資者の横やりに怒るところなんか、監督自体、何か嫌なことがあったんでしょうかね。
さて、監督のファンの方はどう言おうと見るでしょう。全く初見の方がこの映画を映画館で見るとして評価すると微妙です。映像が美しく、色の使い方も違うなぁ、と思えるので、映画館の方がいいっちゃいいんですがね。

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