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2006/09/09

”9.11”を考える

さて、今回はあの”9・11”から5年が経ち、ワタクシも一言言わせていただこうと。
まず、「アフガニスタン侵攻」を考えてみたいと思います。

”9・11”後、誰があの未曾有の事件を起こしたか、について、アメリカは早くからウサマ・ビン・ラディンとアルカイダであると特定していました。それまでのアメリカに対するテロ行動と言説によって、稚拙ではありましたが、この件については、後の状況を考えると妥当だと考えられます。
そのビン・ラディンの身柄の引き渡しをアフガニスタンのタリバン政権に求めた訳です。

さて、タリバンとは何者か。その発足や活動は当時から謎であり、現在もどの程度解明されているか、不勉強で判りませんが、イスラム聖職者青年同盟だということ。旧ソビエトによるアフガン撤退後、軍閥が割拠し、無政府状態のアフガンに突如表れ、南部地域を奪い治めた団体であるという事。ここ大切ですが、国としてのアフガンをすべて治めていた訳ではなく、一部に支配地域を持っていただけであるという事です。つまり、タリバン政権というのは存在していなかった。
支配地域は厳格なイスラム法による統治で、戦乱の続いたアフガンでは治安などの面で、住民に安定した状況を提供しました。
そのタリバンに対し、アメリカはビン・ラディンの引き渡しを迫り、拒否するなら侵攻をかけると迫った訳です。
これはワタクシの想像ですが、果たしてビン・ラディンはタリバン支配地域にいたのか、引き渡しができたのかと考えれば、否と考えます。これは、タリバンが対抗手段として、歴史的遺物の石窟像の破壊を担保にとりましたが、それしか手段がなかった、タリバンにはビン・ラディンを引き渡す手段が無かったのではないかと考えます。
アメリカは国際的な黙認と北部軍閥の協力でタリバン攻撃を完遂、しかし、ビン・ラディンは見つからず、現在に至る、というところです。
当時から、アメリカの侵攻に対し、スケープゴートを求めたのではないか、という考えがありました。
確かにタリバンにビン・ラディンの影響が無いかといえば、否、だと思いますが、対ソビエト戦において、現在も存続する北部軍閥の方が影響は大きかったのでは無いでしょうか。冷戦時代、武装集団のアイデンティティはその持つ武器に表れました。AKならソビエト、Mならアメリカというようにです。しかし、彼らは特定の武器に偏在することは無かった様です。つまり、ビン・ラディンの影響は、あったとすれば、金銭的な供与にとどまっていたのではないかと考えます。

では、なぜタリバンがスケープゴートになったのか。あくまで想像ですが、国としての体裁が整っておらず、他国の利害が絡まないという意味に於いてということだけではなかったか、と思えてくるのです。
その後、アメリカによる暫定統治、カルザイ大統領を首班とする現地政権誕生、となり、厳格なイスラム法によりある種の自由を制限されていた住民の歓迎もあった様です。
しかし、今のアフガンは戦闘状態に入っている、とカルザイ大統領が認めるような状況になっています。治安の維持はアメリカから現地警察とnatoに一部引き継がれていますが、両方に対するタリバン残存勢力や、アルカイダからの攻撃が激化しています。
これについても、声明が出ているものも含め、首謀者は特定できない状況なのではないでしょうか。自爆犯はタリバン、アルカイダと考えている節もありますが、軍閥が自らの影響力の拡大を狙っているような節も見られるようです。

これからのアフガンを考えても、アメリカ軍、及びnato軍がいつまで駐留できるかにかかってくるように思います。カルザイ政権単独では北部軍閥から見ると軍事力のない空白地にしか見られず、支配地域の奪い合いに戻るのではないかと考えます。
「アフガン侵攻」はアメリカが世界各地に散在する反アメリカ勢力に対し、アフガニスタンという”空き地”に呼び出し、やるなら相手してやる、といったようなものだったのではないでしょうか。

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