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2011/07/04

映画「Super8/スーパー8」を観ました

6月24日公開の「スーパー8」を観ました。
困惑が残る、というのが感想です。往ききった感がないのが原因でしょうか。

1979年、14歳の少年ジョーは、突然の事故で母親を亡くし、心に深い悲しみを抱えたまま、保安官の父と二人で暮らすことになる。
4ヶ月後のある夜、親友チャールズの8ミリ映画制作を手伝うために、こっそり家を抜け出して駅に向かい、列車の通過に合わせて撮影を始めるジョー達の前で、突然、車がその列車に突っ込み大事故が発生。あたり一面が炎に包まれ、轟音が鳴り響く中、取り残された8ミリカメラが貨物コンテナで運ばれていた「何か」写してしまう。
到着した軍の回収部隊は、落ちていた8ミリフィルムの空箱を発見し、極秘情報が何者かに目撃されたと知り、大捜索を開始する。
逃げ帰ったジョー達は、事件現場に居たことを誰にも言わないと約束を交わすが、彼らの周りでは不可解な事件が起きはじめる。車のエンジンだけが消え、突然の停電が起こり、町中の犬が姿を消し、人が行方不明に。平穏な町の姿が変わり始めた。

まず構造を整理します。
79年にジョーの周りで起こっていることを収めた映画、つまりワタクシが見ているSF映画を「映画1」とします。次に、79年にジョー達が撮影していた映画、ゾンビ映画を「映画2」にします。つまりジョー達が自主制作で「映画2」を撮っているところを「映画1」で撮っているという二重構造の映画です。
別にこれ自体は珍しくないのですが、「映画2」は親友のチャールズもしくはジョー及び友人たちの視点で良いかと思います。で、「映画1」の視点は観客の目(神の目)であるのが普通なのですが、この映画は違うんですね。
なぜかというと、この「映画1」自体が「映画2」と同様に8ミリフィルムで撮られたもの、もしくはそのように見せているものなんです。これは夜の場面の光がハレーションを起こして、白く、青く帯のように見える、もしくは画面が現像の不備によって汚れている表現から判るもので、それによって推察する「映画1」の視点はJJエイブラムス監督自身ということになります。もっといえば79年当時のエイブラムスか、79年当時の心理になっている現在のエイブラムス監督です。
さらに推察すると「映画1」は、79年当時のエイブラムス監督が撮っていた8ミリ映画が「映画1」くらいのクオリティ、気持で撮っていたものだったよ、ということか、79年当時のエイブラムス監督に現在の技術とカネがあれば「映画1」のようになっていたよ、というものではないか、ということです。「映画2」で貨物列車の大事故を表現するのに、ミニチュアを作って花火で爆破するのと、「映画1」のVFXでとんでもない映像を作るのとは同じテンションの見せ場である、ということです。
とすると、主人公の親友のおデブがエイブラムス監督ということになりますか。「映画2」で当時大ヒットしたA・ロメロ監督の「ゾンビ」に影響を受けて作っているものなら、「映画1」は同じく当時大ヒットしていたS・スピルバーグの「未知との遭遇」に影響を受けているように見えるよう作っているわけです。
ひょっとすると、「映画1」「映画2」ともエイブラムス少年が8ミリ映画で撮っていたか、構想していた映画かもしれません。スピルバーグの「未知との遭遇」に影響された、自分の町が怪物に襲われて自分と友達が巻き込まれる映画と、ロメロの「ゾンビ」に影響された、刑事が町の人がゾンビ化していく謎を追う映画を作っていて、今回それを二重構造にして制作した、ということです。

さて、ここまでこの映画の構造をみてきて、さて面白いか、というと、ほほえましくはある、というぐらいです。映画への愛情、映画を作ることの愛情、本当に楽しい感覚が伝わります。もしかしたら、同じ年代の方には共感があるのかもしれません。ただ、ワタクシには辛いなぁ、というのが実際です。

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