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2010/01/05

吉田 修一の「悪人」を読みました

「悪人」とは誰なのだろう?
読んでいて心が痛い。だけど、読まないと、この心の痛みを感じられないから、始末が悪いな。

07年の出版界のトピックとなった、吉田修一著「悪人」が10年に映画化されることもあり、文庫化されたので、読みました。

物語は九州の福岡・長崎・佐賀3県が舞台です。
出会い系サイトで出会った社会人になりたての保険外交員を殺害した男。彼は別の女性を連れ、逃避行に及ぶ。

この事件の経緯と被害者、加害者とその周囲の人たちの日常を3人称を使い、時にフラッシュバックで関係者の供述を交えながら、克明に描写していく群像劇になっています。
言い方は非常に悪くなりますが、上記のように、殺害された人が一人とその後の犯人の逃亡劇ですから、ドラマ的な要素は少ないのですね。これが、地域や季節などの状況の描写、例えば、冒頭の事件現場の描写、人や車の往来のない山の峠道の描写の1,600字程度を費やすことで、映像が立ち上がるような感覚をもつことができます。

人の心情はモノに色濃くでます。それは、お正月のおせちの重箱のなかの真っ赤なエビに、また、洋服を何年も買った覚えがないおばあさんの久しぶりに買ったセールで3,800円のオレンジ色の明るいスカーフに現れます。

また、被害者の心情と、状況が絶妙だなぁ、と思います。若い女性の同年代の仲の良い女性に対する相手への考え方、本人はそれほど派手ではないが、生活の状況を飾り立てるような自分の見せ方、地方都市の若さを閉じ込めるような息苦しさが伝わってきます。

少し本文の引用を。被害者の父親が、事件現場に被害者を導いた男に接触する場面での言葉
「今の世の中、大切な人もおらん人間が多すぎったい。大切な人がおらん人間は、何でもできると思い込む。自分には失うもんがなかっち、それで自分が強うなった気になっとる。失うものもなければ、欲しいものもない。だけんやろ、自分を余裕のある人間っち思い込んで、失ったり、欲しがったり一喜一憂する人間を、馬鹿にした目で眺めとる。そうじゃなかとよ。本当はそれじゃ駄目とよ」

これがでてきたときに、すべてがハラハラと解けるように判った気がするんですね。つまり、人を3っに分類すると、誠実に生き大切なものを持つ人間と、誠実に生きているがまだ大切なものを持ったことがない人間と、大切なものを持たない人間。
事件は、大切なものをまだ持たない人間が起こしたもので、周りの大切なものを持った人間は、大切なものを持たない人間の持たないが故の言動に心を痛め、大切なものをまだ持たない人間が大切なものを見つける過程である、と集約できるのではないかということです。
そうすると、大切なものがない人間の言動が、それが本人が誠実に生きていたとしても、例えば、テレビのコメンテータの全く当事者たり得ないが故の言葉、ネットでの無名性に守られた中傷のような言葉、近所や周りの人間の当事者でありえるにもかかわらずただの迷惑であるとするような言葉や視線に「悪人」が宿るのではないか、と思えてきます。つまり、加害者や、軽薄であるため嫌悪感を感じる人間から、ワタクシはじめ相対する人間に「悪人」を反転させている感覚をもたせる、その感覚に心を痛めるわけです。

ただし、実際には、もうすでに「悪人」たり得る、もしくは、既に「悪人」であるのにもかかわらず、そのときには、心を痛めない現実を認識することができるのです。

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