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「ワシがゆうたんやない!
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2006/10/01

映画「カポーティ」を観てきました。

賛否両論の映画、「カポーティ」を観てきました。
賛も否も、作品のデキが良かったためのものでしょう。以下、ネタばれバレですので、映画を観る予定の方は読まないように。

 さて、観終わってしばらく経ちますが、未だ、頭に重くのしかかるような作品です。フィリップ・シーモア・ホフマン演じるトルーマン・カポーティに当てられたのでしょうか。
導入、パーティでの会話、スノッブな連中相手に語って聴かせるジョークは人種・ホモネタ、嫌な奴です。
捜査官に取り入るため、語って聴かせるのは、自らの親の死、いかにも南部の保守的な人間にうってつけ、嫌な奴です。
犯人の一人であるペリー・スミスに近づく為に語って聴かせるのは、自らの母親の話、君は特別じゃないよ、といいつつ、シンパシィを抱かる、ホント、嫌な奴です。
作家が映画スターのように名声と富を得ていた時代に、17歳で『ニューヨーカー』誌のスタッフになり、社交界のスターで「ティファニーで朝食を」の作者、まさしく時代の寵児としての業なのでしょうか。
または、ノンフィクションという、新たなジャンルの執筆に精力を傾ける、作家としての執念でしょうか。
調査を手伝う友人のハーパー・リーが書いた「アラバマ物語」の映画化記念パーティの場面、映画はどうだった、と聞かれたカポーティが、リーが去った後につぶやきます。

「騒ぐほどのデキじゃない。」

また、この場面で、結末が見えてこない(犯人が死なないと)ことには、作品を完成する事ができないと、嘆く姿は、恐ろしく幼児的自己中心主義。
周りの状況に合わせて、ペラペラと言を踊らせ、翻していく様は、子供が虫をもてあそぶよう様に残虐です。
ラスト、犯人たちが死刑になった後、精一杯やったが彼らの命を救う事ができなかった、と嘆くカポーティにリーが問う、

「あなたは彼らの死を望んでいたでしょう?」

は、一面の真実でしかないでしょう。
「冷血」後、作品を完成させる事ができず、その未完の作品の献示にあてた、「叶わぬ祈りにより流された涙よりも、叶った祈りにより流された涙の方が多い」は、叶わない祈りにより流された涙の方が多い真実を知っており、かつ、自らは叶った祈りによる涙しか流した事がないと考える人間の言葉ではないでしょうか。
映画としては、非常に良くできており、お金を払って見に行く価値がある作品とはこのことです。フィリップ・シーモア・ホフマンの刑務所の中で犯人に事件当日の事を話せ、と迫る演技を観るだけでも1,800円の価値があります。
また、「冷血」自体も、現在でも読む価値のある本ですが、凄惨な一家皆殺しの事件が描かれているはずが、案外その当時の場面はあっさりと終わってしまい、どこかぼんやりとした状態しか想像できず、誰がどういう風に誰を殺したか、もよくわかりません。ただ、薄っぺらな人間の典型としてディックを、複雑で奥深さを持つ人間としてペリーを描いており、明らかにペリーに心を傾けたカポーティの、自分と重ねた上での、陽と陰のコントラストがすさまじく、読むものを圧倒します。

内容をこの映画と重ね合わせると、さらに状況と心理が合致し、より面白くなるかもしれません。
佐々田雅子訳で、新潮社より文庫が今も出ています。(訳文に少し引っかかるものがありますが)

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