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2011/09/26

映画「猿の惑星:創世記」を観ました

10月7日日本公開、「猿の惑星:創世記」を観てきました。
1968年に公開された「猿の惑星」は素晴らしい映画なのですが、技術が進歩した後の世代にはその「サル感」と、1作目のヒットを受けて作られていく後4作のB級作っぷり、2001年に新たに制作されたティム・バートンがリメイクしたバージョンの「どこへ行ってしまった」感から微苦笑混じりで語られるシリーズとなってしまいました。
今作は大枠で1作目の「サル文明の隆興、ヒト文明の消失」を説明する前日譚にしていますが、お話はシリーズから分離しており、単品の映画としてよく出来たものになっています。

科学者ウィルは、父親のアルツハイマー病を完治させることを目標にサンフランシスコの製薬会社で研究に励んでいる。動物実験でチンパンジーにウィルスから作られた新薬をテストしていたところ、1匹に驚くべき知能が現れるが、なぜかそのチンパンジーは暴れだしたため射殺され、プロジェクトも中止に追い込まれる。それは生まれたばかりの子供を守るためにとったチンパンジーの行動だった。失意のウィルは仕方なくその子供を家に引き取り育て始める。3年後、父親のようにチンパンジーと心を通わせるようになったウィルは、「シーザー」と名付けられ人間のように育てられたチンパンジーが母親譲りの「知性」を示し始めたことから新薬の効果を確信し、研究所から持ち出した新薬を父親に投与、病気が治った父親と「シーザー」との暮らしを望むだけのウィルであったが、事態は彼の想像を超えた動きを始める。

ざっくり言ってしまうと、社会の中に他者として存在しているものが、社会と向き合ったときに自らが他者であるために虐げられる存在であることを知り、自らのためでなく同じく他者である同胞の自由のために戦う、というお話です。
これは、旧シリーズ1作目がラストシーンにより、ヒト文明が他の存在により歴史を上書きされる恐怖、人間の存在の不確かさ、を観客に与え映画史に残っただけでなく、マッカーシズムによる映画人の迫害を投影し、その後の4作も核戦争の恐怖や公民権運動を反映するなど、社会的な色の濃い映画であったことからくるものだと思います。
何より、黒目がちであったと思っていたものがその虹彩に「知性」の光を輝かせる、もしくは向き合った人間が「知性」を読取ってしまう「瞳」になったときに、これまで虐げる存在であったものが脅威に感じられてしまう人間の認識のあやふやさを感じます。

知能が上がっても骨格や筋肉の付きかたまで変化しませんからサルの立ち姿があんな風になるわけはありませんし、研究所や動物園のサルが何もしていないのに他のサルと同じ様に振舞うのもおかしい等、設定の不備が散見しますが、テンポが速く、強引に引張っていかれます。
ただ、ウィルが「シーザー」の存在や新薬の影響にあまりにも能天気であるところが気になります。
少なくともお話の主軸である「シーザー」との関係について起伏がほしいところです。例えば、おカネで飼育施設から「シーザー」を出そうとしたところ、「シーザー」が拒否をするというシーン、動物として扱われ自分が自由になりたいがためウィルの「家」に帰りたいだけであった「シーザー」が、虐げられた同胞の自由を得ようと覚醒したところを示す、決定的な決別のシーンですが、これはもっと尺をとって欲しい。
また、VFXによるサルの演技があまりにも見事で曖昧なところがないために、これで良いのだろうか、という映画の作り方の将来に不安を覚えてしまいました。

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