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2011/01/04

映画「Black Swan」を観ました

さて、2011年春日本で公開予定の映画、「Black Swan」を観ました。ゴールデン・グローブ賞を総なめにした高い評価や、主演のナタリー・ポートマンが今作の振付師と婚約・妊娠を発表するなど、話題の作品です。

ニューヨーク・シティ・バレエ団に所属するバレリーナのニナは元バレリーナの母親と2人で完璧なダンサを目指している。
バレエ団の芸術監督トーマスはトップのベスを引退させ、次の公演では新たな「白鳥の湖」を行うことを決定する。当初1人が2役に当たるオデット役には適任でも、オディール役の力量を問われたニナではあったが、トーマスは彼女を選ぶ。
オディール役の表現に悩み、トップの重圧を感じるニナに変調が生じはじめる。

バレエ・ダンサの能力を評して、自身の体、筋肉の1本1本をコントロールできるその身体表現を称賛することがあります。ただ、身体と精神は対称をなすものととらえられがちですが、不可分で、かつ相互に干渉しあうこの要素が、28歳になるまで身体のコントロールを完全に成そうとしてきたニナを裏切りだすその描写のいちいちが、息を詰めるような重さをもたらします。これはこの題材でバレエを舞台に捉えたアロノフスキ監督の勝ちでしょう。それをセリフではなく身体で具現したナタリー・ポートマンも称賛に値します。
ただひたすらバレリーナとして成功するためにバレエを優先し、恋愛の経験も少なく、白とピンクで埋め尽くされ、ぬいぐるみを並べた部屋に住むニナの見ている世界は子供のものでしょう。世界に触れることの少なさから、その不完全性を知ることがなく、それであるからこそ「完璧になろうとする」努力ができるものです。ただ、そこから出ようとする身体を抑え込みつつ、感情をコントロールするのは不毛で恐ろしい。それをビジュアルに表現するとホラーになるということでしょう。鏡とは怖いもので、自分が覗いたときには自分の見たい自分を映すものですが、自分が覗いていないときには、自分の見たくない自分が映ってしまいます。
特筆しておきたいのは映像表現で、ビジュアルエフェクトが、ただ見たことのない映像を見せようとするのではなく、本来受け手側が想像するものとされる感情の表現に充てられている点です。受け手側の想像を制限する難点もありますが、技術の進歩が補完すべきものはこうゆうものである、と膝を打ちました。

一つ文句をいいたいのは、ウィノナ・ライダーの扱いです。
本ブログで一度述べたことがありますが、ウィノナはX世代のミューズなんです。確かに年齢的には本作の役が適任かもしれませんが、衝撃が激しすぎます。世の中の監督は、もうちょっと彼女にワタクシが心を痛めなくて済む役をあててもらえないでしょうか。

最後に、題材やシーンに故 今敏監督の「パーフェクト・ブルー」との類似を指摘する声があります。今監督のすばらしさと共に、世界的に与えた影響を改めて認識しますが、そのオマージュへの言及の有無と本作の素晴らしさは別です。

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